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機械との競争 ~ロボットやAIが普及することへの恐怖~

 

今日、ロボットやAIの技術は著しく発展している。

 

一昔前はロボットが人間の仕事を奪うなんてそんなことはありえないと誰もが思っていたが、それはすでに現実のものになっている。

 

たとえば、‟変なホテル”という名前のホテルがある。なぜ‟変なホテル”なのかというと、このホテルの従業員は全てロボットであるからである。

 

一見すると、従業員が全員ロボットで生身の人間の従業員が1人もいないホテルなんてろくでもないと思うかもしれないが泊まった客は皆そのサービスに満足しているようである。

 

その証拠にこのホテルの2号店ができるようである。また、海外への展開も視野にいれているようだ。

 

このようにロボットは今後、人間のあらゆる仕事や行動に進出していくだろう。

 

自動運転もその1つである。

 

ロボットが自動で運転してくれるから自分はなにもしなくていい。

そんな夢みたいなことがもうすぐで現実になるのであるが、問題はある。

 

ロボットが事故を起こした時、それはだれの責任になるのだろうか。

 

たとえば、自動運転の車に乗っていた人間が出発前の点検を怠ったり、自動運転機能の使い方を間違ったために事故が起こったのであればそれはその人の過失である。

 

しかし、たとえば乗る人間が点検もしっかりとやり、使い方も完ぺきで100%乗っていた人間に過失はないのに、自動運転で事故を起こし相手にけがをさせてしまった場合、それは誰の責任になのか。

 

自分で運転していた車であればどんなに点検をしていても操作が正しくても運転していたのはその人なのだから100%運転手の過失である。

 

しかし、自動運転であれば事情は変わる。なぜなら運転手がいないからである。

 

したがって、乗っていた人間には過失はない。過失は自動運転をしていた車にある。

 

しかし、その車は人間と違って意思を持っていない。仮に自動運転の機能を意思だとしてもその意思は車が最初から持っていたものではない。人間によって付け加えられたものである。つまり、自動運転の場合はその過失はその車を作った人間にあるといえるのかもしれない。

 

ロボットやAIが普及することへの恐怖

 

よく、テレビや雑誌などでロボットが人間の代わりに仕事を行うことは賛成か反対かとアンケートがある。

 

そういったアンケートではサービスを受ける側、つまりユーザーからの視点からみた結果しか出ないが、ここではサービスをする側からの視点で考えてみたい。

 

今日、ロボットによる通訳、翻訳サービスは飛躍的に進歩している。以前のような語訳も少しずつだがなくなってきている。また、値段も通訳者、翻訳者に頼むよりはるかに安いので頼む側はロボットのほうをチョイスするだろう。

 

しかし、たとえば、語学が好きで将来そういった仕事がしたくて頑張っている者からすればたまったものじゃない。いうなれば生きがい、人生の目標がなくなるのと同じである。

 

マクドナルドにしても同じである。たまにテレビなどでマクドナルドの仕事に人生をかけてる人がいる。彼らからすればマクドナルドでの仕事が生きがいなのである。ところが、マクドナルドのクルーをロボットに変え、彼らを解雇したらどうだろうか?

 

彼らの生きがいや人生の楽しみを奪うことと同じである。

 

また、なんでもかんでも簡単に完璧にやることは少し違和感がないだろうか。

 

ロボットがさらに普及すれば、ロボットよりも能力が低い人間の居場所はなくなってしまうだろう。つまり、社会は完璧なものでしか構成されなくなる時代がくるかもしれない。

 

僕はこれに対して恐 怖のようなものを感じる。失敗をし、考え、回り道をし、そして成長するのが人間らしさである。

 

ところが、つねに完璧しか求められない社会になればこの人間らしさが消え、ロボットらしさが支配する。

つまり、人間はいつの間にかロボットのようになってしまうのだ。

 

だから、僕はロボットの普及に慎重だ。

 

参考図書

 

ロボットが人間の仕事を奪おうとしている現実に警鐘を鳴らしている本がある

 

日本でもビジネスマンを中心に話題になった。

 

この問題に興味のある方は是非読んでみてほしい!

 

 

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