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「ミリオンダラーベイビー」から考える安楽死や尊厳死の賛否

「ミリオンダラーベイビー」という映画を見た。

 

プロボクサーの主人公の女性が試合中の事故で全身不随となり絶望から安楽死を求めるという「尊厳死」や「安楽死」がテーマの作品。

 

僕はこの映画を見る前も見た後も安楽死には賛成だ。


まず、人には自分で死に方を選べる権利があり、また死の自己決定権もある。

もし、当事者が自ら死ぬことを願うのであれば、本人の意思を尊重し、安楽死させるべきである。

 

次に、それが受動的な場合が考えられる。つまり、死ぬ義務だった場合である。たとえば、植物状態になってしまい、脳は死んでいるが、心臓は動いている場合。確かに、本人の意思はないため、彼が死にたいかどうかを問うことは不可能である。

 

しかしながら、たとえば植物状態の場合、私は周りの価値観によって彼が勝手に生きさせられてしまっていると思う。本人の意思がない段階でその人の人間性は失われたと私は考える。つまり、人間性が失われているのにもかかわらず、生き続けさせることは逆に生の拷問を意味すると思う。すなわち、受動的な場合であっても、安楽死はその人の尊厳を守るための手段として重要であると考える。

 


また、心のケアによって患者の心に変化が起き、生きる希望を取り戻したという映像をみたことがある。確かに心のケアは重要だと考える。しかしながら、心のケアと身体のケアは別物である。確かに、心のケアで身体の苦痛をカバーすることもできる。たとえば、小さい子供が転んでしまい痛くて泣いても、お母さんが言葉をかけてあげることによって泣きやむのはよくあることで、これは心のケアによって身体の苦痛をカバーした例だと思う。

 

ただし、治療や薬の副作用により、身体の苦痛を伴い、それが身体のケア、さらに心のケアよりも大きくなった場合(身体の苦痛>心のケア、身体のケア)、つまり、身体のケアではもとより心のケアでもカバーできなくなってしまった場合、“死ぬ”という選択肢を選べてもいいのではないかと思う。
   

 

最後に、ミリオンダラーベイビーの中で取り上げられた、異なる人生観・価値観と安楽死の問題である。確かに、置かれてきた環境、歩んできた人生によって生き方の選択肢の数は変わってきてしまう。

 

しかしながら、置かれた環境のことなどを言い出したらきりがないし、一概に貧しい人の方が人生観が乏しいとは言いきれないと思う。お金もあるし、教育も受けてきたけど、幸せでない人もいるし、逆に貧しいし、教育も受けてきてないけど幸せな人もいる。すべては“見方”次第だと思う。

 

ボクシングはできなくても、ボクシングのコーチならできるかもしれないし、本は読めなくても、本は書けるかもしれない。そういう時こそ、心のケア・周りからのサポートが欠かせないと思う。
   

要するに安楽死は、1)それが積極的でも受動的でも人間としての尊厳を守るため、2)心のケア・周りからのサポートでは到底カバーできないときのための最終手段として必要であると考える。

 

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