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フランスの歴史⑤ パリの発展とイングランド王国との関係

フランク王国の分裂とフランス王国の始まり

814年にカール1世が亡くなると、その後継ぎをめぐって彼の子息たちが争い始めました。

 

孫のロタール1世、ルートヴィヒ2世そしてシャルル2世は841年に戦い(フォントノワの戦い)、帝国を均等に3分割するという条約を結びました。(ヴェルダン条約

 

その結果、フランク王国西フランク王国中部フランク王国東フランク王国の3つに分裂しました。

 

その後、中部フランク王国を治めていたロタール1世が亡くなると、ルートヴィヒ2世とシャルル2世はメルセン条約を結び、中部フランク王国を分割し、それぞれの国に編入し残った部分をイタリア王国としました。

 

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しかし、その後、西フランク王国東フランク王国イタリア王国カロリング家の王たちは後継ぎを残さないまま死去したためカロリング家の血統が途絶えました。

 

西フランク王国ではカペー家のユーグ・カペーが王に即位し、西フランス王国カペー朝が始まりました。そして、以降この西フランク王国のことを歴史学では「フランス王国」とよび、今日のフランスの基礎となりました。

 

東フランク王国ではコンラディン家のコンラート1世が即位し、ドイツ王国が成立しました。

 

イタリア王国では951年にドイツ王国のオットー1世が侵攻し、イタリア王オットーネ1世と名乗り、962年にローマ皇帝の冠を受けました。フランク王国はローマ教会の保護国だったものの、分裂したため新たな保護国を探していたローマ教会がオットー1世に目をつけ、この戴冠が実現しました。

 

ローマ教皇のお墨付きを得た、オットー1世はローマ皇帝としてドイツ王国とイタリア王国の支配を確実なものとしました。これにより神聖ローマ帝国という巨大な帝国が出現しました。

 

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パリの発展

カペー家はもともとパリを統治する大領主だったため、フランス王国カペー朝ではパリが首都になりました。

 

首都となったパリはとりわけ12世紀から発展し、シテ宮という王宮や城壁や要塞が築かれました。また、パリ大学も建設され、パリは政治、学問、経済等の中心地として栄え、人口も爆発的に増えました。

 

しかしながら、パリ以外のフランス王国の領土では問題がありました。フランス王国の領土は大きく、カペー家だけでは領土を外敵から守れないためパリ以外の場所は他の一族が守っていました

 

フランス王国の北西部にはアンジューという州があり、そこはプランジット家という一族が守っていました。そのプランジット家の長であったアンリは外祖父(母方の父)がイングランド王ヘンリー1世だったことを理由に、1154年にイングランド王国の王位を継承し、ヘンリー2世として即位し、イングランド王国プランジット朝の王になりました。

 

これにより、イングランド王ヘンリー2世としてはフランス王ルイ7世と対等であるもののアンジュー伯(アンジュー地方の大領主)としてはフランス王の臣下であるといういびつな関係ができあがりました。

 

また、ヘンリー2世が治めていたフランス王国内の領土は彼の死後も彼の息子たちでありイングランド王国プランジット朝の王となった2代目のリチャード1世やジョン王にも継承されていきました

 

 

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フランスの歴史④ カール1世の時代におけるカロリング朝の最盛期

ローマ帝国の東西分裂によるキリスト教会の分裂

 

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395年にローマ帝国西ローマ帝国東ローマ帝国に分裂すると、ローマにあったローマ教会は西ローマ帝国を、コンスタンティノープルにあったコンスタンティノープル教会は東ローマ帝国をそれぞれ保護国としました。

 

もともとローマ教会があるサン・ピエトロ大聖堂はイエスの後継者とされるペテロが眠っているため、キリスト教の大教会(五本山)のなかでも特別な地位にあったものの、ローマ帝国の分裂によりキリスト教のトップの座をめぐり、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が鮮明になっていきました

 

そんな中、476年に西ローマ帝国が滅亡するとローマ教会は保護国という後ろ盾を失い、弱体化していました。そこで、ローマ教会は新たな保護国を求め、当時まだキリスト教が浸透していなかったフランク王国に目をつけました。

 

そして、ローマ教会はフランク王国メロヴィング朝の初代国王クローヴィスのキリスト教カトリック派)への改宗に成功し、ローマ教会はフランク王国保護国化し、フランク王国内ではキリスト教の影響力が強くなっていきました。

ピピンの即位とローマ教会の権力強化

 

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クローヴィスの死後、王国は息子たちによって4つに分割され、その後、再び統一されますが、再度彼らの息子たちによって再度分割されます。クロタール2世が三度統一するも、その時に手助けした宰相ピピンの存在が実権を握っていきます。

 

732年にイベリア半島から侵入してきたイスラム勢力(ウマイヤ朝)をトゥールポワティエ間の戦いで破るとローマ教皇から支持を得たことで、メロヴィング朝の王キルデリク3世を殺し、王子を幽閉しメロヴィング朝を終わらせ、カロリング朝を開きました。

 

 

なぜカロリング朝を成立させるにあたって教皇の支持が重要だったのでしょうか?

 

ローマ教会とはキリスト教の教会です。キリスト教はイエスの教えを布教する教会です。そして、イエスは神です。つまり、神に自身の即位を認めてもらえれば、自身が王になることに対して相当強いお墨付きを得たことになります。それにより国民からの支持も得やすくなり、磐石な権力基盤を築くことができます。

 

その見返りとしてピピン3世は756年、当時ローマ教会に圧力をかけていた北イタリアのランゴバルド王国に侵攻し、ラヴェンナという地を奪い、ローマ教会にプレゼントしました。(ピピンの寄進)ローマ教会はラヴェンナローマ教皇領とし拠点にしました。

 

このようにフランク王国はローマ教会との関係を強化し、ヨーロッパ世界での存在感を強めていきました。

 

カロリング朝の全盛期

ピピン3世がなくなると、その後を継いだカール1世(カール大帝)は周辺国や地域に進行し、領土を広げていきます。

 

774年、北イタリアのランゴバルド王国に侵攻し、滅ぼすとこの地を併合しました。

 

また、イベリア半島にも進出したもののイスラム帝国の抵抗により撤退を余儀なくされました。(ロンスヴォーの戦い)それでも、イベリア半島の北東を流れるエブロ川まで西に領土を広げました。また、北と東でもそれぞれ領土を広げました。

 

そして、800年、ローマ教会の教皇(ローマ教会の最高位)だったレオ3世がローマ皇帝の冠をカール1世に与えました。(カールの戴冠

 

なぜローマ教会はカール1世にローマ皇帝の冠を与えたのでしょうか?

 

この頃、ローマ教会とコンスタンティノープル教会そしてその保護国東ローマ帝国との対立は激化していました。ローマ教会とフランク王国の結びつきはあったものの、ローマ教会は東ローマ帝国が攻撃してきたときに確実に守ってくれる関係性が必要でした。そこで結びつきを強化するためにローマ教会はカール1世に西ローマ皇帝の冠を与えたのでした。これによりローマ教会は東ローマ帝国と対抗できる政治力と武力を手にしました。

 

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フランスの歴史③ キリスト教の成立とその影響力

キリスト教とは中世ヨーロッパでどんな存在だったのか?

カロリング朝成立後のヨーロッパの歴史をみるまえに、キリスト教について少し学んでおきましょう。というのも、キリスト教は昔も今もヨーロッパの歴史を学ぶ上で非常に重要なポイントの1つです。これを理解しないととりわけ中世ヨーロッパの歴史がわからなくなってしまいます。

 

そもそもキリスト教は最初から存在していたわけではありません。キリスト教ユダヤ教から成立した宗教です。 

 

ユダヤ人たちが自分たちの始祖と考えるアブラハムは現在のイラクにあるウルという場所に住んでいましが、あるときヤハウェから啓示を受け、家族やハランにいた人々とともにパレスチナに移住しました。また、アブラハム唯一神であるヤハウェを信じればユダヤ人たちは救われるという教えも啓示されました。(選民思想) このようにして、ユダヤ人たちは選民思想を信じ耐え抜けば救世主が現れ、ユダヤ人たちを救ってくれる(メシア待望論)と考え始めました。これがユダヤ教の始まりです。

 

しかしながら、パレスチナはその後飢饉に襲われ食物が取れなくなったため、アブラハムの孫にあたるヤコブユダヤ人たちをつれて西のエジプトに非難しました。エジプトの18王朝下で彼らは豊かな暮らしをしていたものの、王朝が代わると新しいファラオは彼らの生活をねたみ、ユダヤ人たちを奴隷として酷使し始めます。ユダヤ人が増え、報復をされることをファラオはユダヤ人の男児たちを皆殺しするよう命じますが、モーセの母は赤ん坊だったモーセを隠して育てましたが、成長とともに隠し切れなくなると彼を川に流しました。

 

しかし、モーセはファラオの王女によって川でたまたま拾われたことで事なきを得ました。成長したモーセユダヤ人たちがエジプト人たちの迫害から逃れるため、ユダヤ教の教えを信じ、ユダヤ人たちを連れてエジプトを出て、ヤハウェから与えられた約束の地パレスチナ(カナン)に戻ることにしました。(紀元前13世紀 出エジプト)

 

しかしながら、一行の前には紅海が立ちはだかりました。モーセが祈るとヤハウェが現れ、紅海が真っ二つにわれ、彼らは紅海を渡ることができました。その後、ヤハウェモーセ十戒を授けました。

 

モーセ十戒

一神教

偶像崇拝の禁止

ヤハウェと呼ぶことの禁止

安息日の制定 (ユダヤ教では土曜日が安息日)

⑤ 両親を敬う

⑥ 殺人の禁止

⑦ 淫行の禁止

⑧ 盗みの禁止

⑨ 隣人への偽証の禁止

⑩ 隣人の財産などを欲してはいけない

 

紀元前10世紀ごろ、現在のパレスチナの地には古代イスラエル王国というユダヤ人の国家がありました。

 

しかしながら、ソロモン王(ソロモン王のときにパレスチナにあるエルサレムという場所にヤハウェ神殿が建てられました)という王が死亡すると王国は南北に分裂し、北のイスラエル王国アッシリア王国に、南のユダ王国古代エジプト王国に滅ぼされ、ぞれぞれ支配され、ユダヤ人たちは迫害されました

 

最終的にこの地はローマ帝国ユダヤ属州として支配しました。

 

そんなユダヤ教の中でもパリサイ派というモーゼの十戒を厳しく守る宗派の人々が強い権力を持つようになります。しかし、パリサイ派はあまりに厳格だったため安息日であっても生計を立てるために働かなければならなかった貧しい人々などから支持を集められずユダヤ教の教えはやがて衰退していきます。そんなユダヤ教の教えを再び復活させるために立ち上がったのがユダヤ人のエスでした。

 

エスパリサイ派の考えを否定し、貧富の差に関係なく律法を破っていても、神を信じていれば全ての人々が救われるべきだという考えを広め始めました。この思想は貧しい人々を中心に支持されたもののパリサイ派の人々やイエスの支持者たちによる反乱を恐れたローマ帝国の皇帝たちから反感を買い、イエスは捕らえられ処刑されました。

 

しかし、イエスの教えは彼の弟子たちによってローマ帝国内の人々に広められました。これがキリスト教の誕生です。(キリストはヘブライ語で「メシア」という意味)

 

しかし、もともとローマ帝国の人々はローマ神話の神々を信仰(ミトラ教)していたため、多神教崇拝を認めないキリスト教への反発はすごく、ローマ帝国の皇帝たちはキリスト教やその教徒たちを迫害や弾圧しました。しかし、帝国の地下にキリスト教徒たちは教会をつくり、キリスト教の教えを広め続けました。(カタコンベ) その結果、ローマ帝国内でキリスト教の影響力は非常に大きなものになりました。

フランスの歴史② フランク王国の誕生

西ローマ帝国の滅亡とフランク王国の誕生

ローマ帝国の東西分裂のきっかけの1つともなった西ゴート人たちはローマ帝国が東西分裂したあとも西ローマ帝国にたびたび侵攻しました。

418年には西ローマ帝国の南ガリアに侵攻すると、そこを支配し西ゴート王国を建国しました。

 

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しかしながら、西ゴート王国ガリア支配は長くは続きませんでした。

 

西ゴート人たちがガリアの地を支配する前からガリアに住んでいて、北ガリアを支配していたフランク人たちが507年にフランク族の王様であったクローヴィスに率いられ、西ゴート王国に侵攻し、この地を支配しました。(ヴイエの戦い)敗れた西ゴート人たちは同じく支配していたイベリア半島に完全に移り、フランク人たちはガリアの地にフランク王国を建国しました。

 

また、この頃には西ローマ帝国はすでに滅亡していました。

 

度重なる異民族の侵攻により、力を失っていた西ローマ帝国は476年傭兵隊長だったオドアケルがクーデターを起こし、当時のローマ皇帝だったロムルスをローマから追放。これにより西ローマ帝国は滅亡しました。

 

しかしながら、オドアケル自身も489年当時フン人たちに支配されていたもののその衰退により支配を逃れ、現在のハンガリーの地を支配していた東ゴート人の王様だったテオドリックに倒されました。(イゾンツォの戦い)勝利した東ゴート人たちはこの地に東ゴート王国を建国しました。

 

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ブルグンド王国はブルグンド人という民族の王国で、西ローマ帝国が存在していたときに、西ローマ帝国を異民族、とりわけフン人の侵攻から守るためにともに戦いました。(カタラウヌムの戦い)

それ以来、西ローマ帝国の政治に介入し、帝国滅亡後は東ガリアの地にブルグンド王国を建国しました。

メロヴィング朝の始まりと終わり

フランク王国はフランク人という民族の国家ですが、フランク人たちの間には様々な家族のつながりがあります。フランク王国を建国した王のクローヴィスはメロヴィング家出身だったので、クローヴィスが治めるフランク王国の王朝の名前はメロヴィング朝といいます。

 

メロヴィング朝はクローヴィスのもとで領土を拡大するなど支配を拡大していきましたが、クローヴィスが亡くなるとフランク王国は4人の子供たちによって分割され、4つの別々の国として統治されます。

 

その後、息子の1人だったクロタールにより4つの王国は1つの王国に再統一されるも彼がなくなった後は息子たちにより再度分割されましたが、クロタールの孫の1人だったクロタール2世により再統一されました。

 

このようにフランク王国メロヴィング朝は不安定な王朝でした。

 

そんな中、711年にイスラム教の帝国だったイスラム帝国ウマイヤ朝イベリア半島に侵入し、西ゴート王国を滅ぼすと(グアダレーテの戦い)、彼らはフランク王国にまで侵攻しようとしました。これに対し、732年メロヴィング朝で宮宰という役職についていたカロリング家のピピンが騎馬隊を組織し、これに迎え撃ちウマイヤ朝を撃退します。(トゥール・ポワティエ間の戦い

 

この戦いでフランク王国内でカロリング家の名声を高めたピピン3世はメロヴィング朝の王を追放し、自身が王座につきます。これによりメロヴィング朝は終了し、カロリング朝が始まりました。

 

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フランスの歴史① ガリア

最初からフランスという国があったわけではない!

最初から今日のような花の都パリを首都とし、美食やファッションの中心として知られるフランスという国があったわけではありません。また、フランス人という民族も最初はいませんでした。

 

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紀元前60年(紀元前1世紀)、現在のフランスが位置する場所はフランスではなくガリア(Gauls)と呼ばれていました。そして、そこにはケルトという民族が住んでいました。

 

ガリアの下にはローマ帝国(赤色の部分)という巨大なローマ人の国がありました。紀元前58年、ローマ帝国の政治家であり軍人でもあったユリウス・カエサルを総督としたローマ軍がガリアの地に侵攻し、ガリア戦争が始まります。

 

戦争は紀元前51年にローマ帝国の勝利で幕を閉じ、ガリアはローマ帝国に属州(ローマ帝国の本国以外の領土)として支配され、敗れたケルト人はローマ帝国支配下に入ります

 

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時代は紀元前から紀元後に移り、紀元後3世紀、相変わらずローマ帝国が支配していたガリアの地に同じくゲルマン系のフランク人という部族が侵攻し、複数のガリアの地を陥落させ支配します。それに対し、ユリアヌスという司令官が指揮するローマ軍がフランク人を撃退し、ガリアの地を再度ローマ帝国支配下に戻します。

 

ユリアヌスはフランク人たちをブラバント(現在のベルギーとオランダが位置する場所)に移住させ、ローマ帝国の国境警備の職を与えます。また、ユリアヌスがローマ皇帝になったあとはフランク人たちはローマ軍の軍人として戦い、軍役後はガリアの土地を割り当てられ、ここに最初から住んでいたガリア人たちと生活を共にするようになります。こうして、ガリア人とフランク人の生活様式などが徐々に同化していきました

巨大なローマ帝国の分裂が時代の大きな転換点に!

長らく広大な地域を支配していたローマ帝国が分裂の危機を迎えます。きっかけは帝国が巨大になりすぎたため、それを統治するのが難しくなったからでした。

 

ローマ帝国が分裂する少し前、フン人というアジア系遊牧民がゲルマン系の東ゴート人という民族が住んでいた黒海北岸のドニエプル川の東側に侵攻し、支配すると一部はフン人の支配下に入り、残りはローマ帝国に保護を求めました。

 

 ローマ帝国は東ゴート人の人々をパンノニア(現在のハンガリーの位置する場所)に住まわせたものの、彼らの東ゴート人への扱いはひどかったため、東ゴート人はローマ帝国に対し反乱を起こし(ゴート戦争)、ローマ帝国は複数の戦いで東ゴート人に敗れるなど厳しい戦況を強いられました。結果的に、東ゴート人との間に休戦協定を結んだものの、この戦争はローマ帝国に大きなダメージを与えました。

 

一方、ドニエプル川の西側に定住していた西ゴート人は東ゴート人が征服されたことを聞き、375年に西進し、ローマ帝国に保護を求めました。ウァレンス帝は彼らをトラキア(バルカン半島南東部)に住まわせるも、西ゴート人への扱いはひどかったため、反発が起こりアドリアノープルの戦いへと発展し、ローマ帝国は敗れました。

 

そういったこともあり、395年にローマ皇帝だったテオドシウス帝が亡くなると、ローマ帝国はローマおよびその他の西側の都市を都とし、息子のホノリウスを皇帝とした西ローマ帝国コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を都とし、息子のアルカディウスを皇帝とした東ローマ帝国に分裂しました

 

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再会

昨年末、一匹の白い子猫を助けた。

仕事が終わり、家路についているといきなり見ず知らずのハンガリー人の女性に声をかけられた。英語が話せないようなので、僕のつたないハンガリー語でコミュニケーションをとってみる。

どうやら「白い子猫を見つけたようなのだが、自分はこれからバスに乗らなければならずなにもしてあげることができないから。でも見たところ、この子猫は野生の猫ではなく飼い猫だから助けてあげてほしい」と言っているようだ。僕らの足元には吹いたら飛んでしまいそうなほど小さな黒の斑点をところどころにつけた白猫がいた。

ふと昨夏のクロアチア旅行思い出した。泊まっていたマンションのドアの前で小さな黒い斑点をつけた白猫を見つけた。僕はこの子を部屋の中に入れ、クロアチアにいる間ずっと世話をし、同時に飼い主を探そうと彼女と奔走した。結局、飼い主は見つからず、ハンガリーに連れていくこともできないので泣く泣くドアの前に帰すことしかできなかった。

この子猫はあの時の子猫とよく似ていた。きっと何かの縁なのだろう。それに無類の猫好きの僕がこの願いを断ることはできかなった。子猫を家に連れて帰り、彼女に相談した。彼女は猫の保護をお願いしてきた女性が実は飼い主で本当はこの子を捨てたかったのではないかと疑っていたが、一緒に飼い主を探すために協力してくれた。SNSのグループに子猫の写真をあげた。すると、すぐにコメントがついた。どうやら、近くに住む家から逃げ出してしまった子猫のようだった。

コメントをしてきた飼い主の人と待ち合わせ、子猫を渡した。名前も性別もわからないこの子との時間は1時間も満たなかったがとてつもなく寂しかった。

 

あれから年が明け、4か月がたったある春の日、実はその飼い主さんが一軒家をはさんだところに住むご近所さんであることを知った。いつか会えるかなと思いながら家の庭に立っていると隣の庭にこっちを見つめる白い物体があるのに気付いた。

あの時の猫だった!

あれから4か月たち、もう子猫ではなかった。名前はキティーで、性別は女の子だという。今では外に出ても迷わず自分の家に帰れるようになっていた。わが子の成長が親にとって何よりもうれしいというのはこういうことなのかもしれないとしみじみ思い、つかの間の再会を楽しんだ。

ハンガリーにおけるコロナウイルスの状況

1、ハンガリーコロナウイルスは広まっていますか?

 

3月3日現在、ハンガリー国内でコロナウイルスの感染は確認されていません。

 

追記1)

 

3月4日にハンガリーで感染者が確認されました。

 

また、ハンガリーを旅行で訪れたアメリカ人が次の旅行先での検査で陽性反応がでるというケースも現れました。

 

追記2) 

www.news24.jp

日本でこのニュースが大きく報じられましたが、この15人の方たちは街を歩いていたら日本人だからいきなり検疫対象になったわけでなく、咳をしていたためホテルから自ら連絡したようです。

 

現在のところ、日本人は強制的な検疫対象にはなっていません。一方で、イラン人はなっています。

 

追記3) 3月12日現在、ハンガリーの感染者は16人(イラン人9、ハンガリー人6、イギリス人1)で、感染が確認されたイラン人たちは最初に感染が確認されたイラン人の留学生との接触が確認されています。そのため、イラン人は強制検疫の対象となり、拒否した場合はビザの停止などの措置がとられます。また、全ての大学が当面の間休校となり、授業はオンラインで行われるとのことです。

 

また、ハンガリー政府は緊急事態宣言をし、中国、韓国、イラン、イタリアとハンガリー間のフライトを停止し、オーストリアスロベニアとの国境間で検問を再開しました。

 

追記4) 3月20日現在、ハンガリー国内の感染者は85人(イラン人10、英国人1、カザフスタン人1、ハンガリー人73)です。

多くの会社で在宅勤務が取り入れられ、食糧品店や薬局等を除くお店やレストランは原則、午後15時から翌朝6時まで営業していません。また、いくつかのスーパーでは購入制限が設けられています。オンラインショッピングは一週間待ちなどになっています。

加えて、ハンガリー国籍所有者(配偶者も含む)以外の入国を禁止しています。また、65歳以上しか入店できない時間帯が設けられました。年齢確認のためにパスポートなどが必要です。

 

追記5) 4月27日より市内の公共交通機関(バス、電車、トラム、地下鉄)を利用する際には、マスクやスカーフなど鼻や口を覆うものの着用を義務付けることを発表しました。

 

追記6) 地方から徐々にロックダウンが解除され、ついにブダペストでもロックダウンが解除されます。ただし、ソーシャルディスタンスやマスク着用義務などは続きます。

 

health-note-hu.net

 

 

2、マスクの購入は可能ですか?

 

もともとハンガリー人はマスクをするという習慣がないため、ドラッグストアーではほとんど売っていません。薬局ではマスクを取り扱っているようですが、すでに売り切れてしまったようです。インターネットでも買えません。また、除菌用のジェルやシートも売り切れています。 

 

3、物品の買占めは起こっていますか?

 

イタリア北部での食品買占めの映像を受け、一部スーパーでは米やパスタ、缶詰等の買占めが起こっていますが僕が直接行ったスーパーではどこも買占めは起こっていませんでした。トイレットペーパー等の買占めもありません。

 

4、アジア人差別は起こっていますか?

 

全く起こっていません。フランスで起こっているような暴力的な差別はもちろんのこと、アジア系のレストランに落書きをするといった嫌がらせも発生していません。中華レストランの客足が減ったくらいです。ホテルでのアジア人客おことわりのニュースも今のところ聞いたことがありません。

 

ただ、SNSをみていると観光地では「コロナ」などと言ってくる人もいるようです。

 

 

 

5、入国状況はどうなっていますか?

 

日本からの入国は可能です。ただし、日本からの直行便はないためどこかを経由することになります。

 

入国状況に関しては日々変わるため外務省か在ハンガリー日本大使館に問い合わせることをおすすめします。

 

追記1) 3月20日現在、ハンガリー国籍所有者(配偶者も含む)以外の入国を禁止しています。

 

 

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5日目 親と子供

 

自分が年をとるにつれて「死」について考えることが多くなった。自分が死んだらどうなるんだろう。もしも、彼女や家族が死んだら自分はどうなるんだろう。ただ、壊れゆく世界の行く末を見ずに済むからそれはいいことかなどと「死」についてあれこれ思考をめぐらせる。

 

母もたまに「死」について考え、すごくブルーな気持ちになるらしい。そんなときは、イチローみたいな人間もいつかは死ぬんだと考えると気持ちが楽になるそうだ。

 

人はいつか死ぬ。ただ、いつ死ぬかわからない。今日元気でも次の日に事故に巻き込まれてぽっくり死ぬかもしれない。だから、「死」について考えたって時間の無駄だ。それについて考えてブルーな気持ちになるぐらいなら彼女や家族、友達と過ごす楽しい時間のことを考えたほうがいろいろな面で有効だ。

 

家族とブダペストで楽しい時間を過ごせる日もついに最終日を迎えた。無事にホテルをチェックアウトした家族はタクシーで僕の家にきた。彼女の家族の家だが、居候させてもらっている。僕の暮らしぶりを見せると両親は安心していた。

 

帰りの飛行機の時間までまだ時間がある。路面電車で市街地に向かい市場やマルギレット島という人工島を散策した。父は"I love Budapest"などハンガリーにまつわることが書かれたシャツを買いたかったようだが残念ながらお眼鏡にかなうものはなかったようだ。

 

飛行機の時間が近づいている。

 

家の近くまで路面電車で戻り、スーパーで最後のお土産を買い、家に戻った。ところが問題が起こった。父が市場で買ったサラミを日本に持ち込めるかわからないのだ。肉製品は検疫が必要で申請しないで持ち込み、ばれた場合は犯罪になってしまう。仮に申請しても検疫を通過するかはわからない。大使館に問い合わせるとサラミの持込はできないようで、父はなくなくサラミを手放した。

 

空港までタクシーで向かう。母と彼女が隣で会話している。両親と彼女がうまくやれるかという最初にあった不安はすでになくなっていた。

 

母は自身の英語力はまだまだで彼女が自分の英語のレベルに合わせてくれているから会話が成立するといっていた。確かに、そうなのかもしれないが、本人がそう思うほど母の英語力は低くない。むしろ、流暢じゃなくても外国人とコミュニケーションを取れるほどの英語力を身につけた母の努力には驚きと同時に尊敬の念を抱いた。

 

タクシーが空港についた。長いようで短かった5日間の日程を全て消化した両親はハンガリーを発つ。空港での別れはどんな別れの場面よりも悲しい。目頭があつい。きっと「さようなら」といったらないてしまうだろう。

 

すると、父が近づいてきて「よくやってくれたね」と言ってくれた。その瞬間、こみあげるものを抑えることができなくなった。父はThe日本男児のような厳格な父親でめったにほめてもらうことはなかった。そんな父から「よくやってくれた」といわれ、気持ちを抑えることができなかった。母親とも別れの言葉を交わし、彼女と空港を後にした。

 

両親は無事に飛行機に搭乗し、日本に帰国した。

 

あれから3週間が経った。両親との5日間がつい昨日のことのように感じる。2人と歩いた道や乗った電車に1人で歩いたり乗るのはなんか不思議な気分だった。

 

2年ぶりにあった僕を両親はどう思っただろう。彼らの目には少しはたくましく映っただろうか。それとも、まだまだ僕は2人にとっては子供だろうか。

 

両親はもう二度とこれないかもしれないといっていた。確かに、ハンガリーまでの飛行機代はやすくはないし、宿泊代や食費などもかかる。だから、僕がもっとお金を稼いで今度は僕がチケットを買って2人をハンガリーに招待しようと思った。そのときは妹や祖母も一緒に。

 

来年、免許の更新のために日本に帰る。きっと、日本を発つときにはまた泣くのだろう。男が泣くのはみっともないが、そのときだけは許して欲しい。それ以外に僕の親への最大限の気持ちの表し方が見つからないからだ。

 

4日目 大人とこども

 

父のスマホ写真のスキルは少し上達していた。4日目の朝も日課となっているホテル近くのレトロな駅に行き、駅や電車の写真を撮ったようで見せてくれたが、写真の質は最初よりもあがっていた。

 

この日はブダペストの隣にあるグドゥルーという街に行くことにした。ここにはバイエルン王国出身でありながら政略結婚のためオーストリア=ハンガリー帝国ハプスブルク家のヨーゼフ1世のもとに嫁いだものの、オーストリアでの宮廷生活になじめず旅行先で訪れたハンガリーを気に入り、晩年をハンガリーで過ごしたためハンガリー国民に絶大な人気があるシシーことエリザベートが過ごした宮殿がある。宮殿といってもウィーンの宮殿とは違って非常に質素なものだ。

 

雨の中、電車でグドゥルーに向かう。ハンガリーの電車に乗ってみたかった父は車窓から景色を楽しんでいた。1時間ほどで隣町につき、徒歩30秒の宮殿に到着した。シェーンブル宮殿とはまた違ったよさのあるグドゥルー宮殿を2人とも楽しんでいた。

 

宮殿内のお土産やさんに行く。テストのため一緒にこれなかった彼女へのお土産と両親にシシーが描かれたしおりのプレゼントを買い、店を出ようとすると入口に設置されている万引き防止用のゲートのアラームが作動した。日本は万人はいい人なので万引きなどする人はいないという性善説に基づいた社会のため店に万引き防止用にゲートなどない。一方でヨーロッパは万人は悪人であるという性悪説を基本とする社会なので入口にはゲートがあり、万引きをすると商品についたタグが反応しアラームが作動する。会計時にこのタグを店員が取るのだが、財布などの場合はタグが内蔵されていて取れないので専用の機械でタグを無効にする。ところが、タグを無効にしてもしばらくすると有効になってしまうようで、アラームが作動してしまう。しかも、その財布を売っている店以外でもアラームが作動するので、スーパーでもゲームショップでも財布とは全く関係のない店でアラームが作動する。そして、その都度バックを開け盗っていないことを証明し、財布をゲートにくぐらせ財布が原因であることを示す。毎回この「私は万引き犯ではない」くだりをやらなければならない。最初はアラームがなると逮捕されるのではないかと戦々恐々としていたがいまや慣れたもんである。

 

宮殿をあとにし、ブダペストに再度電車で戻り、オペラ座を見学することにした。外からオペラ座を見たことはあったが、中を見学したことはなかった。オペラ座見学にも英語のガイドがいて、説明してくれる。英語を上達したい母は熱心に説明に耳を傾けていたがガイドの英語が速かったり、単語がわからなかったりでわからないところがあったようでもっとリスニング力をあげないとと改めて誓っていた。

 

テストが終わった彼女が合流し、夕食を食べに僕の一番お気に入りのレストランに2人を案内した。いつもは観光客でごった返していてなかなか席を取れないのにこの日は運よく席をとることができた。ハンガリー名物パプリカの粉を使ったスープグヤーシュやビーフシチューなどを注文した。2人とも大満足していた。自分が好きなものを相手も気に入ってくれたときはいつだってうれしい。自分の味覚が認められた気分になる。

 

いよいよ明日は最終日だ。明日の夜にはもう2人はブダペストにいない。4日間朝から晩まで毎日一緒にいたからだろう、2人と会うのは当たり前のことになっていた。だからこそ、2人と次の日の夜にはもう会えなくなることを考えると急に寂しくなりふたりと別れたあとの路面電車の中で少しだけ泣いた。きっと、空港で見送るときは号泣だろうなと思った。いつだって空港での別れは苦手だ。そういえば、3年前に親元をはなれ初めてハンガリーに来た日の夜、ベッドの上で急に寂しくなり号泣したことを思い出した。

 

ヨーロッパでは家族と毎日メールしたり電話するのは普通だ。なので、僕が1月に1回しか電話しないというと家族と仲悪いの?とよく聞かれる。フランスに1年留学していたときは全く連絡せず、帰国前日に母に次の日に帰ることを伝えようと電話をしたら声を忘れられていて「どちら様ですか?」といわれた話をすると変だとよく言われる。

 

もちろん家族と仲が悪いわけではない。日本とヨーロッパでは家族との距離が違うのだ。自分が親になり、子供が親元を離れたときに自分は子供とどんな距離で接すればいいのだろう。心配だからと毎日連絡したらきっと子供から鬱陶しがられるだろう。だから、適度な距離で適度な回数連絡すればいい。子供は自分自身で親のありがたみに気づく。そして、自分から親に優しくしよう、大切にしようと思うようになる。僕や妹がそうであったように。きっとこれが大人になるということなんだろう。

 

明日は最終日。最後までいい思い出をつくってほしいと心のそこから思った。

3日目 ウィーンと待ちぼうけ

 

父が朝食のバイキングを食べ過ぎたようでトイレからなかなか出てこなかった。ウィーン行きのバスの出発時間が迫る。焦りながら彼女と母と3人で待っているとようやく父が来た。

 

バスに乗り、ウィーン行きのバスが出るステーションまで向かう。その道中、母が朝食バイキングでほかの観光客と話したが「ウィーンに行く」と英語で伝えても全く理解してもらえなかったというストーリーを話した。無理もない。日本語では「ウィーン」だが、英語では"Vienna"という。そう伝えると母はドナウ川をドナウリバーとは言わないと伝えたとき以上にびっくりしていた。

 

ブダペストからウィーンまでは3時間の道のりだ。車内では父は爆睡し、彼女は翌日のテストに向けて勉強をしていた。僕と母は妹のことや祖母のことなどを話した。両親はこの旅行に妹も誘い、チケット代も出してあげるといったようなのだが、両親にお金のことで迷惑をかけたくない妹は断ったようなのだ。祖母はもういい年なので長時間フライトには耐えられない。祖母にももう2年会っていない。バスの中から電話をかけることにした。

 

「もしもし?」久しぶりに聞く祖母の声だ。元気そうだ。元気であることと来年日本に行くからそのときに遊びに行くことを伝えて電話を切った。

 

バスは時間通りにウィーンに着いた。バスを降りて、タクシーでシェーンブル宮殿に向かう。父が宮殿を見るなり「ディズニーランドのホテルに似ている」といった。親子というのは感受性が似るのだろう。僕の初めてシェーンブル宮殿を見たときに全く同じことを言った。

 

チケットを買い、時間まで昼食をとることにした。オーストリア料理はいろいろなタイプがあるが「シュニッツェル」というとんかつがある。僕はこれを「わらじかつ」と呼ぶと父は興味を示したようでわらじかつを食べようかと言っていた。ところがいざメニューを開くといろいろな料理に目移りし、ひとつに決められず結局直前になってあわてて選んだのはパイ生地に野菜などが入ったビーガン料理だった。父のフォークはあまり進まない。きっとおいしくないのだろう。僕が頼んだわらじかつを半分渡すとよほどわらじかつがおいしかったのかあるいはパイ料理がまずかったのかパクパクと食べ進めすぐにたいらげた。

 

庭園を散策し、宮殿内の見学の時間になったので入口に向かう。豪華なつくりの宮殿に両親は圧倒されていた。

 

2時間ほどかかり見学を終えるとすでに時計は3時を指していた。市街地にむかい散策することにした。ウィーンにも王宮はあるので手始めに王宮に向かう。道中、足を休めるためにカフェに入った。ところが待てど暮らせど店員さんが来ない。こちらから合図をしても全く気づかない。いや、もしかしたら気づいているのかもしれないが他の客への対応で手一杯なのかもしれない。20分待っても注文を取りに来ないのでカフェを後にし、王宮に向かった。ヨーロッパには日本の飲食店のように店員さんを呼ぶためのボタンがない。あるとどんなに便利なんだろうかと毎回思う。

 

王宮で写真を撮り、お土産やさんが軒を連ねる通りを散策する。ブダペスト行きのバスの時間が迫っていた。バスステーションまで歩いていくことにした。約1時間の道のりだ。僕にとってはなんてことないのだが、齢56の両親、特におしゃれなデッキシューズを履いていた父にとっては長い道のりだ。道中、父は何度も「ウィーンの路面電車に乗ってみたい」と連呼していた。そこで一度路面電車でバスステーションの近くまで行くことにした。ところが、待てど暮らせど路面電車は来ない。バスの出発の時間は刻々と迫っていた。このままではバスに乗れない。やむを得ず歩くことにした。

 

バスが出発する5分前になんとかステーションについた。みんなくたくたになっていた。店員さんがすぐ来ない、電車が時間通りに来ないというある意味ヨーロッパの洗礼を受けた両親だったがウィーンでの時間を満喫したようである。

 

バスの中では4人とも爆睡し無事にブダペストに着いた。明日は4日目。両親がここに滞在するのもあと2日だ。両親が来るまでは両親と会う実感がわかなかったが、今度は両親がハンガリーを発つ実感がわかなかった。きっと最終日まで実感などわかないのだろう。両親と別れ、彼女と家に帰った。